乙訓(おとくに)、わたしたちの住む地域の名前です。 京都盆地を流れる桂川右岸から、丹波や北摂の山々に連なる西山山地にかけての一帯は、昔から乙訓(おとくに)と呼ばれていました。ここでは、その地名の起源にまつわる物語をご紹介しましょう。 神話の世界に近いほどのずっと昔、『古事記』や『日本書紀』に書かれているお話です。 丹波の道主王(みちのうし)に5人の美しい娘がいました。大和にいる垂仁天皇は、その評判を聞いてお妃にしようと宮廷に呼び寄せました。ところが、そのうち竹野媛(たかのひめ)はさほど美しくないといわれ、1人だけ送り返されることになってしまいました。これを恥じた竹野媛は、丹波に返される途中、「葛野(かどの)」の地で、乗っていた輿(こし)から落ちてみずから命を絶ちます。 そこで、その土地を「堕国(おちくに)」といい、その後「弟国(おとくに)」となまったというのです。 おもしろくて悲しいお話ですが、これはあくまでも説話であって、史実とは考えられていません。しかし「乙訓」が、古くは「弟国」と書き表されていたのは本当のことです。 今から約千五百年ほど前の実在の天皇といわれる継体(けいたい)天皇が、一時この地域にうつした都の名は、「弟国宮」と『日本書紀』に記されています。また飛鳥の藤原京跡出土の木簡(もっかん)や、地元長岡京市の井ノ内から出土した土器(どき)には、「弟国」と書かれたものがあります。 弟国の地名は、「兄国(えくに)」に対する「弟国」からきているというのが、現在ではもっとも説得力のある説です。竹野媛が輿から落ちたとされる葛野は、乙訓地域の北方、現在の桂から太秦や北野などにかけての、京都市西部の郡名です。 奈良時代以前の葛野郡は、乙訓地域を含めた広い範囲だったようです。七〇二年に大宝令(たいほうりょう)という法律が施行された時、その一部が分かれて独立した郡となりました。そこで葛野を兄国、そこから分かれた地域が弟国と呼ばれ、のちに乙訓の文字があてられるようになったといわれています。 乙訓郡は、戦後になって久我・羽束師・大枝・久世・大原野の五村が、次々と京都市域に編入され、昭和四七(一九七二)年には向日町・長岡町が市になったため、現在の公式の住居表示では大山崎町のみを示す地名となりました。 しかし、古代からの由緒を持つ乙訓の名は、いまも土地の人々から愛され、行政区画をこえたこの地域の人々の連帯を示すシンボルとして使われ続けています。 |